出雲風土記に記載された都牟自つむじ社は斐川町に2つあるのですが、そのうちの1つがここ福富ふくどみの都牟自神社です。まるでつむじ風を思わせるような名前ですが、奈良時代にはこの辺り一帯を漆治郷しつじのさとと呼び、この辺りが湿地帯であることを象徴する地名だったことを伝えています。この神社のご由緒を辿っていくと、遥か1300年前の地形が分かってくるのです!

 

都牟自神社のご祭神

 

薦枕志都沼値命こもまくらしつぬちのみこと

直江からこの福富・久木・原鹿のあたりまでを奈良時代には漆治郷しつじのさとと呼んでいました。この神は漆治郷を治める土着神として信仰され、お名前にある「シツ」は沼や川、「チ」は土地を意味し、薦枕とはこの土地にかかる枕詞とすると、マコモが多く茂っていた土地を想像できます。

またこの神は別名があり、天津枳値可美高日子命と呼ばれました。「アマツ」とは天から下って、「キチカミ」とはこの地に来られ「タカヒコ」とは大王の御子神を表す尊称です。ここで出雲風土記の気になる一文を抜粋します。

 

出雲風土記 -出雲郡漆治郷-
神魂命の御子、天津枳値可美高日子命あまつきちかみたかひこの御名を、又、薦枕志都沼値といふ。此の神、郷の中に坐す。故、志刀沼といふ。

 

出雲風土記を鑑みるとコモマクラシツヌチはアマツキチカミタカヒコという別名を持っている事が分かります。実はこの神と似た名前を持つ神がいらっしゃるのですが、神名火山にいて代々王家の祭祀を担当したお方だと曽枳能夜そきのや神社のご由緒に伝えられている「キヒサカミタカヒコ」。もしこの二柱が同じ神なのであれば、かなり広範囲の土地を治めていた神様と考えられます。

 

奈良時代の宍道湖

実は「つむじのやしろ」という名前を持つ神社は平田の旅伏山にもあります。その麓には美談神社があるのですが。

キヒサカミタカヒコが祀られた曽枳能夜神社から直江のツムジ、福富のツムジ、旅伏山のツムジをつないでいくと奈良時代くらいの宍道湖岸ラインが浮かび上がってくるのです!湖岸にはまだ砂が堆積して間もないころ、湿地帯が広がっていたのでしょうね。

 

 

都牟自神社のご由緒

 

1540年頃、高瀬城主 米原綱広がこの地にあった久木八幡宮へ参拝される道中、お城からほど近くの高瀬山の西にあった竹林に都牟自神社を発見。なぜこんなところにお祀りしているのかと仰り、久木八幡宮へ移されたと言われています。

尼子の武将、米原氏が活躍した戦国時代には諏訪神社を中心に数々の神社を整備されています。久木八幡宮は尼子の居城であった安来の月山富田城の富田八幡宮から御分霊を祀ったものだそうです。この久木八幡宮が明治四年の神社改正令をきっかけに、元々の土着神であるコモマクラシツヌチを主祭神と直し、八幡神を配神とされたそうです。

 

都牟自神社の境内

御本殿

社殿は流造、千木は無く、御神紋は五七の桐、方角は南を向いています。

 

稲荷神社

 

大船神社

 

大年神社

 

 

サイノカミ?

 

 

都牟自神社へのアクセス

JR山陰本線  直江駅から車で約8分です。

 

まとめ

神名火山(仏教山)に鎮座するキヒサカミタカヒコと、漆治の里を統治していたアマツキチカミタカヒコ(コモマクラシツヌチ)が同一神ならば、広域な範囲を統治していた神と言えます。元々は高瀬山の西、つまり仏教山の辺りにあった都牟自神社を高瀬城主の意向で福富に遷座したのでした。この辺り、まだまだミステリーが潜んでいそうです。