タケミナカタの足跡を追ってたどり着いた、次なる神社は佐支多さきた神社。この神社の参道に掲げられたご由緒は非常に簡易なもので、一見するとどこにでもありそうな感じがしますが。実は調べれば調べるほど、この荘原、学頭あたりはタケミナカタをお祀りするために、意味を持ってデザインされている事が分かってきました。早速ご紹介していきますね!

 

佐伎多神社のご祭神

建御名方命たけみなかたのみこと

八坂豆賣命やさかとめのみこと

 

記紀によるとオオクニヌシの息子であるタケミナカタ。そして諏訪大社にも祀られているタケミナカタの妻、ヤサカトメを祀っています。国譲りに反対したタケミナカタは、諏訪の国まで逃げ、出雲には帰ってこない事を約束したはず。それがなぜこの地に祀られているのか?特にこの辺りには諏訪信仰が篤く、探求意欲を駆り立てます。

 

佐支多神社のご由緒

佐支多はもともと崎田と呼ばれ、水辺の先端に位置した神社であることを示していたそうです。

現在は神社の北側に新建川が流れていますが、江戸時代はもっと大きな川が流れていたのです。洪水を引き起こす斐伊川を何とか鎮めるために、松江藩の独断によって分流が作られました。

 

地図上に示した青い線が1831年(江戸時代)に作られた分流で、新川と呼ばれました。この川を人工的に作るため、たくさんの住宅が立ち退きとなり、5年で整備されたと言われています。そしてこの新川も103年後の1939年(昭和14年)には、砂が堆積して陸地となってきたため、廃川となりました。出西地区の飛行場跡から現在の出雲空港まで続くこのルートは「新川通り」として現在も残っています。

出雲風土記には佐支多社という記載がありますが、風土記が書かれた奈良時代にはまだ新川がありません。風土記の佐支多社と、この佐支多神社が同一かどうかは不明なのです。というのも、1717年の江戸時代に書かれた雲陽誌には「下庄原に諏訪明神」とあり、まだこの時代には佐支多神社と名乗っていない事が分かります。なぜならまだ新川が開通していないから、崎田と呼べる地形ではなかったのです。恐らく新川開通前にはタケミナカタを祀る諏訪神社があって、新川開通時にその地形を言い表す佐支多神社という名前に改めたのでしょう。そう考えると風土記に書かれた佐支多神社はどこに・・・?

 

 

諏訪大社との関係性

境内にある摂社には「御射山稲荷」の文字が。そうなのです、この辺りは御射山みさやまと呼ばれる地区なのです。諏訪大社の摂社にもある地名ですね。つまりこれは意味を持ってお祀りされているのでしょう。周辺の神社を見てみるとさらに面白い事が分かってきます。

本殿が向ている方角、つまり参道を真っ直ぐ出て歩いていくと、途中に塚大神と書かれた祠があり、

 

さらに真っ直ぐ歩いていくと、もう一つ鳥居が出現。この先はJR山陰本線の線路となり、道は終わっています。JRが通る前はこの先に歩いて行けたのでしょうが、その方角には神庭諏訪神社が鎮座しているのです。

 

佐支多神社から神庭諏訪神社に真っ直ぐ線をつなぐと、その先に神庭諏訪神社の元宮があり、一直線に並びます。神庭諏訪神社が1770年に元宮から遷座してきた後、1836年に新川が開通した際、川に突き出た部分にタケミナカタを祀って佐支多神社とした。これは神庭諏訪神社の御分霊ではないかと考えられます。

神庭諏訪神社はさらに、学頭諏訪神社の方角を向いていること。また、山を背後に鎮座する神庭諏訪神社は諏訪大社になぞらえると上社本宮に相当し、学頭諏訪神社は上社前宮に相当するのではないかと考えられます。そう考えると新川の対岸、北西方向にある鳥屋神社や御名方神社は下社という事になりそう。詳しくは次の神庭諏訪神社の記事で研究したいと思います。

 

佐支多神社の境内

御本殿

社殿は大社造で、千木は男千木、御神紋は神庭諏訪神社と同じ亀甲に違え鷹。方角は南南東を向いています。

 

御神木

 

御射山稲荷大神

 

謎の祠

 

棟札が読めない摂社

 

サイノカミ?

 

謎の祠群

1つだけ読めるものがあり、大地主大神とある。

 

サイノカミ?

 

金刀比羅大神・廿原堤大神

 

 

佐支多神社へのアクセス

駐車場などはありませんが、上記の地図の通り西側から入ると「御射山自治会館」の駐車場があります。鳥居側から入ろうとすると道が狭いのでご注意ください。

 

まとめ

現在は廃川となった「新川」ができた際に、名前を改称したと推察される。元々タケミナカタを祀るために意味を持って配置された神社だろう。斐川町の中でも、この神庭・学頭辺りは特に諏訪信仰が篤く、タケミナカタが大事にお祀りされている事が印象的です。